最近、ジャーナリングについての記事を書いていたものだから、
私が特別といって詳しいわけではないのだけど、いくつか質問をいただいた。
ジャーナリングについて、これまでも書いてきたものはこんな感じ。
怪しいと思いながら2年続けてわかったことや、
書き方が変わった転機のことなど。
その流れで、自分の考えを少しだけ整理してみようと思ったところ。
私は、いわゆる日記のようなものはずっと書いていて
どれくらい続けているのか、もう思い出せないくらい。
読書や映画の感想も、小論文の練習用に書きためているのだけど
発酵調味料の講師講座を受講したときに「ジャーナリング」という言葉と記録の仕方を知って
今は自分なりに工夫しながら、静かに続けているところ。
続けていく中で、小さな気づきや、軌道修正が生まれた。
きっとこれからも、そういうことが繰り返されていくのだと思っている。
こんな質問をされた。
「ジャーナリングをすれば、すべてがうまくいくのか?」
最初は、少し意味がわからなかった。
なんとなく意図することに気づいた気の短い方の私は、
「世の中にそんなものはないから、自分に合うものを探すしかないと思う」
と、即答した。
でもその問いの中に、ひとつの”誤解の源”があると思ったので、
比較的気の長い方の私で、もう少し丁寧に考えてみることにした。
ジャーナリングをすれば、悩みは消えて、夢は叶い、いつも心地よい暮らしが手に入る。
そんなふうに思われているのじゃないかな。
それはどこか、
「この学校に入れたら一生幸せ」
「好きな人と結婚できたら、すべてうまくいく」
という感覚に、少し似ている気がする。
ある程度の時間を生きてくると、
そんなふうには思わなくなるし
そんな問いも思いつかない。
どちらかというと、ある程度の年齢になってそういうこと無邪気に言ってしまうと、幼稚だと思われて距離をとられてしまう場合もあると、もう、知っている。
そして、そのパターンもたくさんみてきた。
尊敬する人にそういう形で距離をとられるのは悲しいので、私も気をつけている部分で、この記事を書きながら気を新たに引き締めている感じ。
ジャーナリングにしても、世の中で良いと言われていることには
効果のあることも、そうでないことも、どちらもある。
その中で、少しでも「自分にとってのよい」を増やしていく。
そういう選択が、静かに重ねられていくことで
自分の幸福な時間を増やしていくのではないかと私は思っている。
もちろん、私自身も「これさえあれば、他はいらない」と思うようなひとつの正解に憧れたことがある。
けれど、そういう考えは若い時の特権だったり
こだわりのある時期の楽しさではないかしら。
極端な考えよりも、その時々で変わっていける柔らかさ。
自分にとっての”ちょうどいい距離感”を見つけていくことのほうが、ずっと心地よいと感じている。
そういえば、発酵料理について。
一時期は夢中になって、調味料もこれでなければ、と思っていた。
でも今は、少し肩の力が抜けている。

野菜を丁寧に洗って、せいろで蒸す。
それだけで、十分においしい。
岩塩を少し。梅干しを添えるだけでも、かなり満たされる。
こだわりすぎないことで、かえって、私の心地よさは安定している気がする。
夜にしっかり食べた翌朝は、胡桃パンのバタートーストとコーヒーだけ。
グルテンフリーやオイルフリーも経てきたけど、
今は適当。
この適当は考えのない適当ではないと自分では思っているのだけど
側から見ると同じに見えるかも。
ジャーナリングも、きっと同じ。
何かを「解決するための道具」ではなく、自分の焦点を、静かに合わせ直す時間。
その積み重ねが、気づけば、自分の在り方を整えてくれる。
すべてがうまくいくわけではないけれど、少しずつ、自分に戻っていける。
それだけで、十分なのだと今の私は思う。
答えになるだろうか。
ジャーナリングをこれから始めたい方は、こちらの記事も読んでみてください。


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